題字 「電通学生論文」
2002年度

ブロードバンドは広告をどう変えるか



・ 電論とは
・ 小野ゼミにとっての電論
・ 2002年度の研究テーマ
・ 活動経過報告
・ 研究をおえて
・ 第2位受賞


2002年度電通研究論文(全文ダウンロード)
慶應義塾大学商学部 小野晃典研究会 第2期 有志 (2002)
 「ブロードバンドは広告をどう変えるか」

 (PDFファイル 2,305KB)



研究をおえて

電論プロジェクト・メンバー全員の研究後記を掲載します!
中島崇浩 代表
向井崇平 総務
木村泰之 渉外
藤村悦子    
中谷麻希    
高垣綾子

中嶋崇浩
 僕にとって、電通論文は後期の学生生活そのものでした。 毎日が電通論文で始まり、電通論文で終わる生活で、時には徹夜をして一日が終わらない日もありました。

 電通論文では代表という役職をやらせていただきましたが、その責任は僕にとって大変重いものでしたが、非常に価値のある経験だったと感じます。 よくよく自分の人生を振り返ってみると、今までクラブ活動の部長はおろかクラスの学級委員さえ務めたことがなく、組織のリーダーという立場に立ったのは僕にとって今回が初めての経験でした。 そして、電通論文代表という経験を通して、自分がリーダーとして至らなかった点を数多く知ることができました。その中のいくつかを箇条書きにすると次のとおりです。

・ タイムマネジメントができなかった。 大まかな活動計画を立てても、それを現実的に行動に移せるレベルまで、掘り下げることができていなかった、あるいは、計画を実行する努力が足りなかった。

・ 1人1人のメンバーを効率よく機能させることができなかった。 タスクを分担することが下手で、とくに執筆段階で分担作業に漏れやダブリがあった。 また、誰に何をやってもらうか、ということを十分に考えられておらず、作業の分担が適材適所とはいえなかった。

・ ミーティングが円滑に進むようにコーディネートできず、メンバー同士のコミュニケーションが上手くいかなかった。 そのとき話し合わなければいけないことと、そうではないことの区別が自分の中で明確になっておらず、ミーティングで時間をかけて話し合いをしても、十分なアウトプットがでていなかった。

 ページの都合上、反省点の列挙はここまでにしますが、自分の欠点を把握することは、自分の欠点を改善するための第1歩であり、今後の自分の人生において大変意義のあることだと思います。 このような貴重な機会を与えてくれた小野ゼミや、僕を支えてくれた電通論文チームのみなさん、最後まで親身にご指導いただいた小野先生、中間発表等で貴重なアドバイスをくれたゼミ生のみなさんに深く感謝したいと思います。


向井崇平
 思い起こすと、まだ桜の香ただよう春合宿にて、私の電通論文ヒストリーはスタートした。 春合宿の役員決め、ゼミ代表選挙でダイコン(田中)と争い僅差の落選、そして入ゼミ担当を決めるアミダくじで落選、電論代表を決めるアミダくじで落選、そして私の電通論文総務への就任が決定した。 おなじく電通論文プロジェクトの渉外に就任した 「鬼畜」 こと木村泰之は、その就任演説にて 「えっと、電文(でんぶん)の渉外を担当することになった木村です。 鬼畜ですが、頑張ります。」 と意味不明なコメントを残した。 この不可解なコメント中で、木村が電論を 「電文」 と言い間違ったことから、我々は今後、電通論文を 「電論」 ではなく、ゴロの悪い 「電文」 と呼ぶことにしよう、とよくわからない誓いを立てた。 また当時はまだ論文活動なんて楽勝だと思われていた時期であり、メンバーそれぞれが 「鬼畜」 やら 「魔性の女」 やらと言ったニックネームでお互いを呼び合い、仲むつまじく平穏な日々が続いていた。

 夏休みに入り、週1回程度ミーティングが開催されたものの、議論というよりも雑談、しかし笑顔の絶えない日々が続いたのだった。 このとき誰1人として気付かなかった、いや気付かない振りをしていたのであろうか。 密かに、だが確実に電通論文プロジェクトに黒い霧が忍び寄っていたのである。

 秋学期に入り、そろそろ活動のペースを上げていかねばならなくなった。 そしてついに黒い霧が我々を覆い始めたのである。 いいアイディアを出せない! なんとか出したアイディアを収束しきれない! 相手の言うことを聞けない!! 自分の話していることも意味がわからない! 我々メンバーが抱える様々な問題が、ここに来て一気に噴出してきたのだった。

 先の見えない混沌とした状態のなか、我々は必死に活動をしてきた。 月曜・木曜の前日は毎週徹夜、気が遠くなるような何百時間もの議論、数百回ものレジュメ作成。。。 そして初冬、ついに一筋の強い光明が差し込んできたのであった。素晴らしい論文の骨組みが出来上がってきたのである。 論文における素晴らしいアイディア、巧みな論理の展開、それと同時に、その論文を手がけた我々にも大きな変化が起こっていた。 思考の発散・収束の巧みさ、相手の意見を汲み取り、自分の意見も効果的に伝えようとするコミュニケーション。 そう、我々が必死にもがき苦しんだ過程は、確実に我々を成長させたのだった。

 そしてついに12月21日、電通論文が完成を迎えた。 みな傷つきつつも、最高の論文を書き上げ、そして大きな成長を遂げていた。

 最後に、論文に協力していただいた小野晃典先生、1期生、2期生の方々に感謝の意を表したい。


木村泰之
 2002年晩春・・・それは我々の前に啓示された。 その名は電通論文。今思えば、あの頃は幸せだったのかもしれない。 無知の幸福とでも言うべきか。 当時、電通論文が我々を苦しめることになるとは、メンバー6人誰1人として知る由も無かった。

 我々の前に立ちはだかる大きな課題 “ブロードバンドは広告をどう変えるか?” この課題に向き合ったとき我々6人の聖戦は始まったのである。 いや、戦いはこのとき始まったのだろうか? 数年前ブロードバンドが開発されたとき? インターネットが普及した頃? もしくはそれより昔、明治34年7月1日、電通が創業したときに始まっていたのかもしれない。

 半年にも及ぶ長き戦い、その中で被った代償は大きかった。 意見の不一致、無責任なスケジュール管理、それによって起こるメンバー間の不信。 さらには冬の到来と共に睡眠不足と栄養失調で倒れ行くリーダーの中島崇浩。 厳しい戦いは聖夜の目前まで続いた。 そしてある日、夜明けと共に聖戦は幕を閉じた。 我々の戦いは終わったのである・・・

 電通論文(聖戦)を終えて、私の得たものは大きい。 以前まで他人と共同して何か1つのことに打ち込む機会の無かった私は、何よりも協力の大切さを知った。 そして、共に1つのことを最後までやり遂げることの充実感を知った。 さらに何日間か睡眠と栄養が不足しても生きていけるという人間の強さを知った。 これらのことは、これからの自分の人生で大きな意味を持つのだろう。 電通論文は、自分にとって大きな自信になったとつくづく思う。

 最後に共に活動してきたメンバー、よきライバルであった三田論や十ゼミの人たち、そして最後まで温かく支えてくれた小野先生や先輩方に対して感謝の意を表したい。


藤村悦子
 小野晃典研究会に入った春、小野ゼミ三大プロジェクトの希望調査が行なわれたとき、 「夏休みはケンブリッジの短期留学だから、夏休みに負担の少ないプロジェクト=電通論文にしよう。電論の役員の3人も優しそうだし」。 この安易な考えが私と電通論文の始まりでした。電文の締め切りは12月。入ゼミの仕事が一番忙しい時期に入ゼミ担当の2人ともが電論なんて・・・なんてと先輩方から言われたけど、まだこのときは大丈夫だろうなんて安易に考えていました。 今から思えば、助言を聞いておけばよかったのかもしれない。 そうしたらこの12月、小野ゼミの皆に多大な迷惑をかけることもなかったかもしれない。 けど、もし助言を聞いていたら、電文とのこの長いようで短い充実した論文生活はなかったのだと思うと、あのときの決断は間違っていなかったと確信しています。

 電文でよかった、なんて思うのは、コトラーが 「よし、わかった。 この点から決めようとか言って全然まとまらないまとめを延々と続けていくとき。 向井の何でもノートの象形文字を解読できないとき。 みんなの話し合いが緊迫しているとき、木村がライターやらなんやらで1人遊んで、笑いを取ろうとしているとき。 「だから前からあたしはこう言ってたでしょ!」とあやっこ早口でまくしたてるとき。 まきが新しい視点に触れて、考え方を変えて語って、向井に突っ込まれているとき。 日本語がよく分からない文章を読んだとき。これはみんなが気に入ってくれるかな、とか思いながら執筆しているとき。

 今から思うと微笑ましい事柄も、論文に真剣に向かい合っているときはいちいちぶつかる原因になったり、失望したり、逆に前向きになったり。最終日の最後の執筆のときまで、結章で向井と言い争って、そんなことの繰り返しでようやく電文が完成したときは、嬉しさと疲れとで何ともいえない充実感と達成感を味わいました。 電通論文はダメなとこだらけで、混線して、泥沼化して、けどそれは自分たちの中で納得のいくものを作りあげたいという思いが、普通の人たちよりほんの少し多かったからだと思います。

 この6人で論文を書き上げられたこと。 これがミラクルであり、私たちにとってかけがいのない日々であったと実感する今日この頃でありました。

 最後に、電通論文の7人目のメンバーである、最終日に雨の中バイクで駆けつけて指導してくださった小野晃典先生、論文の添削に力添えしてくださった1期の先輩方、理解を示してくれた2期のメンバーみんなに、心から感謝を述べたいと思います。 本当にありがとうございました。


中谷麻希
 何よりも、自信をもっていえること。 『電文』は最後の瞬間まで…「らしかった!!」 この “らしさ” こそが、電文を通しての、私の一番の宝物だ。 お互い納得のいくまで話合い、それは時に朝方にまで及ぶこともあった。 また、お互いの意見の不一致は、互いの信頼を欠くことすらあったかもしれない。 しかし、今ではこの論文は、この6人のメンバーでなければ書き上げることが出来なかったものだと自信を持って言える。 お互いがぶつかり合う中で新たな発想が生まれ、論文はこの形に仕上がっていった。 そして何よりも、たくさんの衝突は、私たちの間に大きな信頼を築き、私たちを大きく成長させてくれたのだ。

 12月21日…論文は書き終えたが、私の電文生活は決して終わらないだろう。 電文を通して得られた経験は、自分自身に多くの課題を与えてくれた。 私はこれから、この課題に挑戦していくことで、5人に対して、本当の意味での感謝の気持ちを伝えていきたい。 そして最後に、こんな私たちを最後まで応援して下さった小野先生、1期の先輩方(とくに鶴岡さん)、そしてライバルであり、よき理解者であった2期のみんなには心から感謝しています。ありがとうございました。


垣綾子
 私は電通論文の活動を通して様々なことが学べて、本当にこのチームに所属してよかったと思っています。

 メンバーとは遠慮なしで本気で討論して、ぶつかることもありました。 しかし、ぶつかることでますます仲が深まり、私の中でメンバーは以前に増してかけがえのない友人になりました。

 ゴールまでの道のりは果てしなく長く、遠回りだったけれど、今まで論文に打ち込んだ日々は消えない事実として残っています。 結果がどうであれ、私は電通論文のメンバーと歩んできたこの半年は決して無駄ではなかったと思っています。

 冒頭にも書きましたが、私はこのチームから本当にたくさんのことを学ぶことができました。

 電通論文チームの代表としてがんばってくれたコトラーをはじめ、向井・木村・中谷・えつこ、どうもありがとう。

 そして最後まで温かくご指導くださった小野晃典先生、本当にありがとうございました。


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2003年1月10日

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